行者山史

「行者山」の歴史

 

 広島県の広島市西区に位置する「古江」「草津」の両地区は、その昔、深い入り江になっていて、天然の良港を形成していたといわれています。また、草津八幡宮の由緒書によれば、朝鮮半島に渡って古代の新羅国を征伐した「神功皇后」は、古代の草津港に船団を集結させ、その後、現在の草津八幡宮付近を仮皇居に寓し、弓箭(弓矢)の演習を行ったと伝えています。そのため、草津という地名は、軍船(いくさぶね)の船揃えを行った故事により「軍津(いくさつ)の語が転訛した呼称とされ、弓箭の演習地となった場所(山)も、後代の人々から「力箭山(りきやさん)」と名付けられるようになったと伝えています。

 また、広島の郷土史である『軍津浦輪物語(広島郷土史研究会編・昭和55年)』によれば、中世時代の力箭山の頂上付近には「天狗松」が存在し、この地域を行き交う船の指標になっていたと記述しています。それに加えて、同書には、室町時代の「応永年間(1394年~1428年)」に、中国の洞庭湖畔にある「海蔵峰」より、天台宗僧侶の「慈眼禅師」が92歳の高齢ながら来日し、その時に通り掛かった力箭山の周辺が、極めて故郷の風景に似ていたことから、この地に「深省楼雲上閣」と名付けた僧坊を結んだという縁起も記述しています。

 しかしながら、何故に、慈眼禅師が中国から遥か日本まで渡って来られたのか、その理由を明瞭に述べた文献は、残念ながら未だ知られておりません。ただ、先述した一書には、正長2年(1429年)の出来事として、大和国(奈良県)の「法隆寺」から「役行者(神変大菩薩)」が勧請された旨が書き添えられていることは、慈眼禅師の来日動機を伺う上で、とても大きな意味を持つ伝承になっていると思われます。

 その理由は、中国(唐代)で成立した『七代記』に、古代中国で活躍した「恵思禅師(南岳大師)」が、後世に倭国の王家に託生して「聖徳太子」になったと伝えており、中国僧の思託も『上宮皇太子菩薩伝』に、恵思禅師弟子の「天台智顗(天台大師)」法系の「鑑真和上」は、恵思禅師が生まれ替わって聖徳太子になったと知り、終に日本へ渡る決意をしたと伝えているからです。
また、この南岳恵思後身説は、中国のみならず日本でも「伝教大師(最澄)」の『天台法華宗付法縁起』や、光定の『伝述一心戒文』に引かれて、いわば天台宗の始源を根拠付ける伝説としてよく機能されて来た事実があるのです。

 よって、中国天台宗の慈眼禅師が、恵思禅師の生まれ替わりとされる聖徳太子の遺徳を偲んで、遥々と東方の日本まで遊行されたと推定しても、それはあながち飛躍の過ぎた仮説とは言えないのです。そして、とりわけ聖徳太子由縁の法隆寺から役行者が勧請された伝承が残されている事実は、単純に、この推察を決定付けていると言っても過言ではないのかもしれません。

 いずれにしても、慈眼禅師は、行者山に僧坊を結んだ7年後の3月7日に99歳で遷化され、慈眼禅師の僧坊も7代に亘る後継を経た後に、天台宗から曹洞宗に改宗されたということです。また、その後の力箭山には、役行者を祀る行者堂が建立され、いつの頃からか地域の人々から「行者山(ぎょうじゃやま)」と呼ばれるようになりました。そして、この行者山という地名は、昭和期に開通した行者山トンネルなど、地域の方々に親しまれて、今日に至っております。なお、現在の行者山は、南に瀬戸内海、東に広島市街、そして西に宮島を一望できる景観を保ち、四季折々の自然に触れながら貴重な命に感謝して、過去・現在・未来を見つめる聖地として佇んでいます。