当山寺伝

「石光寺」から「太光寺」に至る変遷

 

昭和元年(1926年)  旧広島市の猿楽町(現在の広島市中区大手町の原爆ドーム付近)に、原光明」師が「天台宗三井寺派」「石光寺」を設立し、当山(石光寺)が開山されることになった。
 なお、この原光明師は、愛媛県今治市で第68世「石中寺」住職に任じられた「小笠原観念」大和尚の直弟子(法嗣)で、石中寺は、約1350年前(飛鳥時代)頃に旧伊予国で開山し、約1170年前(平安時代)頃に三井寺の直末寺となった天台修験の古刹であった。
 また、石中寺の法灯は、四国山地の石鎚山脈に属する「瓶ケ森男山(「石土山」)」山頂を聖地に定めて護持されてきたが、昭和の初期頃に、小笠原観念大和尚の法縁によって大いに中興され、大阪、鳥取、広島、福岡、香川、山梨にも末寺を有する一大寺院へと発展した。
昭和16年(1941年)  前年の昭和15年(1940年)に施行された宗教団体法に則して、古来より分派していた延暦寺派、三井寺派、西教寺派の三派が合同することになり、総じて「天台宗」となった。
 これに伴って、当山(石光寺)も天台宗の一寺院として合流することになった。
昭和20年(1945年)  広島市に原爆が投下され、やがて終戦を迎えることになった。
 なお、当時の石光寺で檀信徒総代を務めていた佐久間満之氏の談話によれば、原爆投下で被爆した終戦直後の石光寺では、原光明と原浄信の両師が、身元不明の被爆者たちを献身的に介護して、その死者の供養と回向を施していたと伝えている。
昭和21年(1946年)  大戦中の宗教団体法が廃止され、天台宗が再び三派(天台宗=延暦寺、天台寺門宗=三井寺、天台真盛宗=西教寺)に分離することになった。
 この際、当山(石光寺)は石中寺との法縁から「天台寺門宗」に帰属した。
昭和22年(1947年)  小笠原観念大和尚の門流によって、愛媛県の石中寺を総本山とする「石土宗」法流が形成された。
 また、この石土宗法流が所依の経典とする『石土経』には、不動明王、蔵王権現、神変大菩薩(役行者)が祀られ、当山(石光寺)も広島市内で不動護摩を奉修する稀少な天台修験の道場として継続されることになった。
昭和29年(1954年)  昭和26年(1951年)に宗教法人法が施行され、天台寺門宗の石土宗法流も、昭和29年に「包括宗教団体」の認証を得て、天台寺門宗から完全に独立することになった。
 そして、この情勢に附随して「宗教法人石光寺」が、昭和29年2月2日付で広島県旧安佐郡祇園町に設立されることになった。
平成13年(2001年)  昭和29年に建立した石光寺本堂の老朽化から、新境内地を広島市安佐南区沼田町に得て、平成13年3月8日、当山(石光寺)の所在地を広島市安佐南区祇園町から沼田町(現在の安佐南区伴東)に移転した。
 また、旧来の天台宗系の寺院に服するため、同年7月4日に、石土宗による包括宗教団体の定めを廃止した。そのことによって、これ以降から当山(石光寺)は「天台宗系単立」の宗教法人として活動することになった。
平成14年(2002年)  10月29日、石光寺が広島市西区田方「古江中央霊園」の墓地経営を開始する。
平成15年(2003年)  3月20日、石光寺から「宗教法人山葉会」に名称を変更し、法人規則も石土宗から天台宗の教義に基づく目的へと正式に変更する。
 同年12月24日、山葉会の名称を改めて「宗教法人慈学院」に変更する。
平成20年(2008年)  4月8日、慈学院が大本山とするのに相応しい境内地を求め、その結果、広島市西区田方の行者山に「太光寺」の大伽藍(大本堂・御本坊・和気殿)を落成する。
平成21年(2009年)  4月29日、天台宗総本山「比叡山延暦寺」長﨟の小林隆彰大僧正が太光寺の名誉住職に就任され、これより以後は、当寺を「行者山太光寺」と正式に名称することにする。
平成25年(2013年)  10月20日、比叡山延暦寺一山千手院より行者山太光寺の大本堂に、平安時代後期(12世紀頃)作の阿弥陀如来座像をお迎えする。
平成27年(2015年)  7月1日、慈学院の所在地を、広島市安佐南区から広島市西区田方の太光寺内に移転する。