行者山史

「行者山」の歴史

 

1.「行者山」の周辺

現在、太光寺がある「行者山」は、広島県広島市西区の「田方」の地に位置しています。そして、その行者山の麓に広がる「草津」の地は、隣接する「古江」の地とともに、近世まで深い入り江を形成していて、天然の良港として利用されていたと伝えられています。また、それだけでなく、残存する資料の中から確認される行者山の周辺は、歴史の息吹を大いに感じさせる地でもありました。

例えば、草津を物語る古昔の説話として巷間によく知られているのは、広島市西区田方の「草津八幡宮」が伝える由緒書で、それによれば、古代の朝鮮半島へ渡って新羅(三韓)征伐をした「神功皇后」は、上古時代の草津港に渡海するための船団を集結させて、現在の草津八幡宮の境内を仮皇居に定めたと綴っています。そして、その草津八幡宮の境内付近で、神功皇后が兵士たちに弓箭(弓矢)の演習を施したことから、草津という地名は、軍船(いくさぶね)の船揃えを行った故事により「軍津(いくさつ)という呼称が転訛した語とされ、その弓箭の演習地となった場所(山)も、後代の人々から「力箭山(りきやさん=現在の行者山)」と名称されたと記述されています。

さらに、広島市の歴史を伝える郷土誌として稀少な労作との呼び声が高い『軍津浦輪物語(広島郷土史研究会編・昭和55年)』には、広島市西区の周辺地域で古昔から語り継がれてきた民間伝承が極めて詳細に、かつ多岐に亘って編纂されております。特に、この書籍の中でも草津の章によれば、中世時代頃から近世時代まで、力箭山の山頂付近には「天狗松」と呼ばれる古樹が存在しており、瀬戸内海沿岸の古江や草津を行き交う船が、その古樹を良い目印にして航海していたと記述されています。

また、その他にも、古江と草津には、飛鳥時代に行われた天智天皇による白村江の戦いで軍港として使用されたという古代の伝承も残されています。そして、その後も源範頼が壇ノ浦の平家追討に向かうときや、足利義満が菊地征伐のために九州へ下向するとき、さらには、戦国時代に毛利元就が厳島の戦いを仕掛けた際にも、その前哨戦の舞台となる軍港として草津が利用されたという説話が伝えられています。

ただし、日本国中が平和になった江戸時代以降の古江と草津は、いわゆる軍港としての役割を完全に終えることになり、特に草津の地は、港町として、あるいは西国街道の主要な宿場町(間宿の時代もあった)として、穏やかにその街並みを育むことで、地域の人々の生活を見つめて来ました。そして、その後は、明治以降に開始された大規模な埋め立て造成の工事を経てから、より一層の繁栄を見ることになり、商業地として大いに発展した現在の景観を形成するに至りました。

以上のように、古江や草津の地は古い歴史だけでなく、古くからの海上交通や軍事上の要衝としても栄えていたことが窺える振興地域でもありました。そして、行者山は、かかる背景を有した周辺地域を見守りながら、今日まで悠然と聳え続けて来たのです。

 

 

2.「行者山」の開創

足利義満によって、室町時代の政治、経済、文化の最盛期が築かれた頃、一人の中国(明)からの渡来僧によって、行者山は新たな仏教信仰の地として開創されることになりました。

先述した『軍津浦輪物語』は、室町時代の「応永年間(1394年~1428年)」に、中国(湖南省)の洞庭湖畔にある「海蔵峰」というところから、中国天台宗の僧侶である「慈眼禅師」が、92歳の高齢ながら来日したと伝えています。また、当時の力箭山(現在の行者山)周辺の情景が、極めて禅師の故郷の風景と酷似していたことから、その地に「深省楼雲上閣」と名付けた僧坊を建立して、その7年後の3月7日に99歳で遷化した縁起を掲載しています。このような記述から、慈眼禅師が来日して、当時の力箭山を新たな仏教信仰の地、或いは修行道場の地として定め、それ以降も仏教の聖地として存続して行く基礎を築かれたことは、容易に推察できることであります。

実際に、これまで西日本地域の諸国には、中国からの渡来僧による開山を伝える寺社や聖地が数多く確認されて来ました。例えば奈良時代に来日した鑑真和上などの高僧を筆頭に、または無名の僧侶まで、多くの中国僧が海を渡って来日していた史実があったのです。しかしながら、慈眼禅師は、そうした渡来僧の一人として一体如何なる目的をもって、当時の中国(明)から渡航して来られたのでありましょうか。

この由来を考察する上で、一つの重要な手掛かりとなる伝承としては、大和国(奈良県)の「法隆寺」から「正長2(1429)年」に、力箭山の境内へ「役行者(神変大菩薩)」が勧請されたという縁起が残されていることを挙げることができます。つまり、この伝承から、全くの私見による愚考を恐れることなく申し上げれば、中国の天台宗を出身とした慈眼禅師は、その当時の仏教界で「恵思禅師(中国天台宗の第二祖)の生まれ変わりと強く信仰された「聖徳太子」の遺徳を偲んで、92歳の老体ながら遥々と東方の日本まで渡航され、その途上で当時の力箭山に逗留されたのではないかと思われるのです。

実は、この恵思禅師が死後に日本へ生まれ変わって聖徳太子になったという伝承(南岳恵思後身説)は、近世まで中国と日本の仏教界で真摯に信仰されてきた伝説となっていました。その史料として著名な唐代中国の『七代記』には、古代中国で活躍した恵思禅師は、後世に倭国の王家に託生して聖徳太子という王族になったと記述されており、また先述した奈良時代に日本へ渡って仏教の戒律を伝えた「鑑真和上」も、恵思禅師が生まれ変わって聖徳太子になったことを知った理由から日本へ渡る決意をしたと、中国僧の思託が『上宮皇太子菩薩伝』に述べているほどであったのです。なお、これに少し補足をするならば、鑑真和上は恵思禅師の弟子で天台宗第三祖になる「天台智顗(天台大師)」の法系であった事実も加わっていたと考えられます。さらに、この南岳恵思後身説は中国のみならず日本に於いても見受けられ、比叡山延暦寺を開創した「伝教大師(最澄)」の『天台法華宗付法縁起』や、別当大師(光定)の『伝述一心戒文』にも、聖徳太子は恵思禅師の生まれ変わりであったことが引かれるなど、この伝承は日中両国の間で周知されてきた歴史的な共通認識であったのです。

以上のように、国境を越えて流伝した南岳恵思後身説は、いわば天台宗の始源を根拠付ける説話として、日中天台の仏教史上で非常によく機能されてきた事績がありました。しかし残念なことに、その伝承を慈眼禅師の渡航目的と結びつけることができる現存史料は、海蔵寺が慈眼禅師以後7代を経た後に、天台宗から曹洞宗に改宗されることになった等の諸事情から、もはや、現在に於いて詳らかにされることはなく、その真偽が確かめられる術も残されていません。ただ、それであっても、聖徳太子と最も由縁の深い法隆寺から、役行者(役行者開基の大峰山寺は中世時代から興福寺、法隆寺、薬師寺と深い関係を構築した)が勧請された歴史上の出来事は、まぎれもなく禅師の渡航目的を示唆している断片の一つであったと考えても良いのかと思われるのです。

 

 

3.「行者山」の発展

先述からの『軍津浦輪物語』によれば、来日後に慈眼禅師が建立した僧坊は、後に現在の海蔵寺がある位置に移転され「洞庭峰海蔵寺」と呼称されました。そして、慈眼禅師以降7代に亘る後継を経てから、廿日市の洞雲寺四世であった興雲宗繁和尚によって、天台宗から曹洞宗に改宗されました。よって、それ以降の海蔵寺は洞雲寺の末寺に属することになり、本尊も弘仁11(820)年と伝えられる「聖観音菩薩」を迎えて「久遠山海蔵寺」の山号を公称するようになったということです。

その一方で、法隆寺から勧請された役行者は、宝暦5(1755)年に山内鳴動の霊託をもって、同年3月7日に力箭山南部の山頂付近へ祀られたと伝承されています。なお、この際に建立された「行者堂」は、近隣庶民の「お籠り堂」となっていたことが特徴的で、創建当初から相当の信仰者も存在していたらしく、堂前には広島細工町信者一同と銘記された明和3(1766)年の石灯篭も現存しております。また、この行者堂の本尊は、大竹市の行者山にあるものと同形の尊像であるという伝承も残されています。

このように、修験道の開基として広く敷衍されている役行者を本尊として創建された力箭山の行者堂は、江戸時代以降から、熱心な祈願者たちが潔斎する修験道場として信仰されるようになって行ったようです。そして、何時の頃からか断定はできませんが、やがて力箭山は、地域の人々から「行者山(ぎょうじゃやま)」と呼ばれて深い信仰を受けるようになりました。

その後、この行者山は、明治維新による廃仏毀釈や、第二次大戦による戦禍、さらに近年に発生した火災などによって行者堂を失うなど、多くの法難に見舞われることになりましたが、それでも、この行者山という通名は、昭和期に開通した行者山トンネルなどに見られるように、地域の方々に親しまれ続け、近年に至るまでその歴史を粛々と重ねて来ました。

そして、いよいよ平成14(2002)年に、有縁の方々による御遺訓を得た有志者によって「古江中央霊園」の運営が始まると、そのことが端緒となって、行者山は多くの実業界の方々から篤信の恩恵を受けることになり、仏教信仰の聖地として大きな発展を遂げることになりました。さらには、昭和20(1945)年に原爆で被災した旧広島市猿楽町の「石光寺」が、平成15(2003)年に宗教法人「慈学院」と名称変更して、新たに平成20(2008)年に「太光寺」の伽藍を行者山へ改修新築すると、天台宗系単立寺院の「行者山太光寺」が開山されることにも結び付きました。

もちろん、平成期に行者山で開山された太光寺は、まだまだ歴史の浅い未熟な寺院であり、これからの時代に法灯を護持していくため新しい理念を掲げて建立された新造の伽藍でありますが、その教えの根本精神は、日本仏教の祖である伝教大師最澄によって開創された天台仏教の教義に立脚しています。よって、太光寺に奉職する僧侶は、天台宗の僧籍を有して教化活動に日々精進しております。

なお、太光寺が大切としている理念の中で、最も代表的なものは

・世界平和を尊重する

・慈しみの教えを学ぶ

・地球環境を保全する

・真の心の人を育てる

であります。

行者山太光寺は、南に瀬戸内海、東に広島市街、そして西に宮島を一望できる景観と四季折々の自然豊かな環境下にあります。

私たち僧侶および職員一同は、この貴重な場所に働き、皆様方とともに上記理念を一層深化できるよう努力するとともに、この地を過去と現在、そして未来の「三世」を見つめる聖地として歩み続けるよう努めてまいります。

 

 

 

「石光寺」から「太光寺」に至る変遷

 

昭和元年(1926年)  旧広島市の猿楽町(現在の広島市中区大手町の原爆ドーム付近)に、原光明」師が「天台宗三井寺派」「石光寺」を設立し、当山(石光寺)が開山されることになった。
 なお、この原光明師は、愛媛県今治市で第68世「石中寺」住職に任じられた「小笠原観念」大和尚の直弟子(法嗣)で、石中寺は、約1350年前(飛鳥時代)頃に旧伊予国で開山し、約1170年前(平安時代)頃に三井寺の直末寺となった天台修験の古刹であった。
 また、石中寺の法灯は、四国山地の石鎚山脈に属する「瓶ケ森男山(「石土山」)」山頂を聖地に定めて護持されてきたが、昭和の初期頃に、小笠原観念大和尚の法縁によって大いに中興され、大阪、鳥取、広島、福岡、香川、山梨にも末寺を有する一大寺院へと発展した。
昭和16年(1941年)  前年の昭和15年(1940年)に施行された宗教団体法に則して、古来より分派していた延暦寺派、三井寺派、西教寺派の三派が合同することになり、総じて「天台宗」となった。
 これに伴って、当山(石光寺)も天台宗の一寺院として合流することになった。
昭和20年(1945年)  広島市に原爆が投下され、やがて終戦を迎えることになった。
 なお、当時の石光寺で檀信徒総代を務めていた佐久間満之氏の談話によれば、原爆投下で被爆した終戦直後の石光寺では、原光明と原浄信の両師が、身元不明の被爆者たちを献身的に介護して、その死者の供養と回向を施していたと伝えている。
昭和21年(1946年)  大戦中の宗教団体法が廃止され、天台宗が再び三派(天台宗=延暦寺、天台寺門宗=三井寺、天台真盛宗=西教寺)に分離することになった。
 この際、当山(石光寺)は石中寺との法縁から「天台寺門宗」に帰属した。
昭和22年(1947年)  小笠原観念大和尚の門流によって、愛媛県の石中寺を総本山とする「石土宗」法流が形成された。
 また、この石土宗法流が所依の経典とする『石土経』には、不動明王、蔵王権現、神変大菩薩(役行者)が祀られ、当山(石光寺)も広島市内で不動護摩を奉修する稀少な天台修験の道場として継続されることになった。
昭和29年(1954年)  昭和26年(1951年)に宗教法人法が施行され、天台寺門宗の石土宗法流も、昭和29年に「包括宗教団体」の認証を得て、天台寺門宗から完全に独立することになった。
 そして、この情勢に附随して「宗教法人石光寺」が、昭和29年2月2日付で広島県旧安佐郡祇園町に設立されることになった。
平成13年(2001年)  昭和29年に建立した石光寺本堂の老朽化から、新境内地を広島市安佐南区沼田町に得て、平成13年3月8日、当山(石光寺)の所在地を広島市安佐南区祇園町から沼田町(現在の安佐南区伴東)に移転した。
 また、旧来の天台宗系の寺院に服するため、同年7月4日に、石土宗による包括宗教団体の定めを廃止した。そのことによって、これ以降から当山(石光寺)は「天台宗系単立」の宗教法人として活動することになった。
平成14年(2002年)  10月29日、石光寺が広島市西区田方に「古江中央霊園」の墓地経営を開始する。
平成15年(2003年)  3月20日、石光寺から「宗教法人山葉会」に名称を変更し、法人規則も石土宗から天台宗の教義に基づく目的へと正式に変更する。
 同年12月24日、山葉会の名称を改めて「宗教法人慈学院」に変更する。
平成20年(2008年)  4月8日、慈学院が大本山とするのに相応しい境内地を求め、その結果、広島市西区田方の行者山に「太光寺」の大伽藍(大本堂・御本坊・和気殿)を落成する。
平成21年(2009年)  4月29日、天台宗総本山「比叡山延暦寺」長﨟の小林隆彰大僧正が太光寺の名誉住職に就任され、これより以後は、当寺を「行者山太光寺」と正式に名称することにする。
平成25年(2013年)  10月20日、比叡山延暦寺一山千手院より行者山太光寺の大本堂に、平安時代後期(12世紀頃)作の阿弥陀如来座像をお迎えする。
平成27年(2015年)  7月1日、慈学院の所在地を、広島市安佐南区から広島市西区田方の太光寺内に移転する。
令和2年(2020年)  3月18日、天台宗系の単立寺院として、宗教法人の名称を慈学宗に変更することを申請し、これを受理される。